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十二弟子の派遣

 

そんな中で、今日の10章の冒頭には、「イエスは十二弟子を呼んで、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊ども追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やすためであった。」(10:1)とあります。

 

汚れた霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やすというのは、先の9:35にあるとおり、あるいは、4:23にもあるとおり、イエス様のなさっているみわざそのものであり、宣教のお働きそのものです。それをするために、十二弟子を呼んで、その働きのための権威をお授けになったということです。

 

そして、ここには聖書の中で唯一の箇所ですが、十二弟子の名前が挙げられています。ペテロとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、ピリポとバルトロマイ、トマスと取税人マタイ、アルパヨの子ヤコブとタダイ、熱心党のシモンとイスカリオテのユダです。このメンバーを見てみると、実にバラエティー豊かな人々であったことがわかります。

 

職業を見てみても、ペテロとアンデレ、ヨハネとヤコブは漁師でした。マタイは取税人です。取税人は当時ローマ帝国の支配にあってローマのために税金を徴収していた者です。ローマの圧政にある中で人々からは嫌われ売国奴とさえ思われていたような人でした。

 

一方、熱心党員のシモンは、生粋の愛国者で、国のためならいのちさえ惜しまない、そんな思想をもった人でした。今で言えば右翼のような人です。もし、このシモンとマタイがイエス様の弟子になる前に出会っていたら、シモンはマタイを刺殺していたかも知れません。それが二人ともイエス様の弟子として働いていきます。

 

 

教会を見てもそうではないでしょうか。それそれに生まれも違えば、育ちも違う、育った文化もまた考え方や思想も違うでしょう。中にはある一面だけをみれば、全く正反対の人たちもいるかもしれません。でも、私たちもそうですが、この弟子たちもただ一つ、共通点がありました。それは、イエス様の弟子だったということです。

 

思想的・職業的背景が、弟子たちの間で問題にされたことはありませんでした。そして、ただ神の御国のため、イエス様に従い、働いていきました。二人が言い争ったとか、仲が悪かったとか、聖書にはそんな記述は一切ありません。

 

そういった違いを乗り越え、ただイエス様によって一致していたことに、この共同体のすばらしさがあります。まず、今日はこのことを覚えたいと思います。こうして、一人ひとりが選ばれ、主の尊いお働きに任命されました。

 

私たちもそれぞれに豊かな賜物が与えられています。どうか、これを主のお働きのために用いて、選ばれたことを喜んで、与えれる使命を全うしていきたいと願います。

 

 

 

(主日礼拝メッセージ「十二弟子の派遣」より)