私たち人間はみな本当にいつも自分は正しいと考え、主張し、行動します。しかし、ふと、自分のしていることを顧みて、また、これまでの神様の約束に照らし、また、これまで神様がなさってきていることを思い巡らして、本当に、今、自分のしようとしていることが、神のみこころなのか、吟味し、神に立ち返ることができる者は幸いです。
そして、それは悔い改めるべき時に改めないといけません。この後、イスラエルの民は、自分たちの犯した罪の大きさに気づきますが、それはもう遅すぎました。私たちもまた恐れるあまり、また、自分の願望を押し通そうとするあまり、これまで神様がなさってきてくださったことを台無しにするようなことはないでしょうか。
私自自身いつもよくあることですが、これは本当にこうしかないと思っていることでも、待てよ、もし、違う選択をしたら、どうなるか、と考えます。
一旦、自分の考えをすべて否定し、自分を無にして考え直すとき、何より、今主は何をされようとしているのか、主のみこころのみを思い、祈り求める時、主の備えておられる恵みを知る時があります。
そして、チャレンジはあっても従う時、これならみこころにかなうと信じられる道を歩みだす時ほど、確かな平安はありません。(中略)
「あなたがたが知っているとおり、彼は後になって祝福を受け継ぎたいと思ったのですが、退けられました。涙を流して求めても、彼には悔い改めの機会が残っていませんでした。」(ヘブル12:17)
「これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。」(Iコリント10:11)
(主日礼拝メッセージ「ヨシュアとカレブの信仰」より)