神様は私たちにすばらしい救いのみわざをなさって、また将来の約束も与えてくださいます。それは、確かな祝福の約束、永遠の約束です。しかし、不思議ですが、その中にあっても困難や苦しみ、試練もお与えになります。イスラエルの民にとってこの荒野の旅はまさにそのような経験でした。しかし、その渇望するも満たされない中で、人はそこに神を求めるようになるのも一つの真実です。神様はあえて、そのような中にあえて、私たちを追いやります。そこで、神様は何かを教えようとされているのです。(中略)
私たちのこの地での毎日の生活もそうではないでしょうか。かつて喜び勇んでこの英国の地に渡ってきた。ある者は、何か新しい勉強や新しい仕事をするために、ある者は結婚するために。そこには心喜びおどるワクワクするような期待がありました。そして、子どもも生まれ、家庭も築く、仕事も発展していく。
しかし、同時に、子育ての大変さや、仕事においても増し加わる責任や負荷、あるいは、時として仕事を失ったり、人生が根底から揺るがされるような、全く予期せぬことも起こるでしょう。自分なりに目的があるのに達成できない、そんなこともあるでしょう。そんな時、人間は弱いですから、不平を言ってしまいます。
そしてその矛先は、自分以外の者に向けられ、往々にして自分の身近の者であったりしますが、しかし、そのような中にあっても、私たちが信仰を持って、神を信じ、私たちの人生を主イエス・キリストに委ね、主に任せて信頼して生きていくなら、私たちには、本当に、平安と喜びが与えられます。
「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。主があなたの進む道をまっすぐにされる。」(箴言3:5−6)
行く道すべてにおいてそこにも神が伴っておられること、それさえも神がよしとして備えられたものであること、こう認める時、そこにも、私たちが前向きに学ぶべきことがあることを覚えます。
たとえ苦難に遭遇することがあっても。そして、そこに、もうどうしようもないという選択のない道かもしれないけれども、なぜかしらわからなくても、そこにも神の導きがあり、目的があり、御旨があるということです。そして、神の指し示される道がそこにあるということではないでしょうか。
このように人生に与えられた人生の課題を一つ一つ、主とともに解決して歩んでいければ幸いです。主が私たちの進む道をまっすぐにしてくださいます。それは苦痛を伴うプロセスかもしれませんが、最終的に平安と喜びを見出していく、そのような道です。確かに主の道を間違えず歩んでいる。これほど平安で、確信と希望に満ちたものはありません。
それは、必ず、日々私たちの必要を満たし、養いたもうというみ約束のうちに与えられる道であり、また、最終的には、地上でどうあれ、天の御国に通じている道だからです。
「今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます。」(ローマ8:18)
(主日礼拝メッセージ「モーセの歌」より)