生かされている恵みを覚えたいと思います。神によって生かされていることを。
私たちも、イエス様を信じた時、試練の中で、もう生きるか死ぬかというつらい経験の中で、神様の救いを経験した方も多くおられるのではないでしょうか。
それは往々にして自分の罪から来るものであったり、あるいは病のように不可抗力のこともありますが、もうそのようなどうしようもない苦しみから神を求め、時に今日のイスラエルの民のようにさけび、そこから奇跡のように救いの道を得て、回復の経験をします。そして、その喜びに満ち溢れます。もう私が生きているのではない。私の力で生きているのでない。私の力で立っているのではない。ああ生かされているんだ。立たされているんだ。そう実感します。
その時、本当に神の前にいかに自分は思い上がった者であったかを思わされ、謙虚に、ああもう多くを望まない、ただ、神の前に、人の前に謙虚に生きていこう、生かされている恵みを日々噛み締めつつ。そう思います。
しかし、ふとかつての苦しみ、そこからの救いの恵みを忘れ、すぐに何かあると他の人をさばき、ちょっとうまくいくと、すぐに自分を誇る。すべて私自身のことを自戒して言っているのですが、どうか、今、一度、神の前に、この圧倒的な救いのみわざのご愛とみ力の前に、謙虚になりたいと願います。
この紅海渡航の出来事は、神の救いの象徴とされます。イスラエルの民が水の中を通って救われたように、私たちもイエス・キリストを信じて救いを得た時、バプテスマ(洗礼)を受けます。これは、新しく生まれ変わる経験です。一度死ぬほどの経験をした者は、本当に生まれ変わったように、新しい人生を歩みだします。しかも喜びと希望を持って。何より全能の神の存在とその神に信頼する確信と希望をもって。
これは天の御国の者とされた永遠の希望です。また、水につかって、一度自分に死ぬ経験、これは同時に、水によってきよめられる経験でもあります。父子聖霊の名によってバプテスマ(洗礼)を受け、聖霊の印象を押され、生涯、このしるしをもって、神様の聖霊が与えられ、以後、内住するご聖霊に、イエス様ご自身に導かれて生きる者とされるということです。(中略)
「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。私たちがキリストの死と同じようになって、キリストと一つになっているなら、キリストの復活とも同じようになるからです。私たちは知っています。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです。死んだ者は罪から解放されているのです。私たちがキリストとともに死んだのなら、キリストとともに生きることにもなる、と私たちは信じています。」(ローマ6:4−8)
今日の紅海渡航の出来事のように、主ご自身が先頭に立って戦ってくださいます。行く道を開いてくださいます。
ここにおられるみなさんの多くはすでにイエス様を信じて救いを経験された方々でしょうか。そうでないなら、是非、この救い主イエス・キリストを救い主と受け入れてください。すでに信じておられる方々は、どうか、今、一度、その救いの原点に立ち戻ることができますように。
生かされている恵み、滅ぼされるべきが、ただ、主のあわれみによって、救い出され、新しくされ、生かされている恵みを覚えたいと願います。願わくばその喜びを終生忘れず、日々、噛み締めつつ、恐れず、不平を言うことなく、疑わず、主をほめたたえて、生きていくことができますように。
また、この素晴らしいみ救いを経験し続け、また伝え、一人でも多くの方々と天の御国に憩うことができますように。主を信じて、絶えず、主が示され開かれる道を、主の命じられるとおり、前進し続けることができますように。
(主日礼拝メッセージ「海を渡る」より)