しかし、神様にとって、その人に何ができて何ができないなどということは、全く関係ないのです。「だれが口をきけなくし、耳をふさぎ、目を開け、また閉ざすのか。それは、わたし、主ではないか」とのとおりです。
神様は不思議ですが、時に全くその働きにふさわしくないのではと思われる人をお用いになられます。ハンディーキャップがあったり、凄まじい逆境の中にあって、とても今、そんな神様の働きなどできる状況にないと思える人こそ、用いられるということも見てきました。神様はあえて、そのような中に合って、立ち上がる者を用いてくださいます。そのようにして、ご自身の全能とご栄光を明らかにされます。
もう少し、暮らしが楽になって、会社を定年して、時間とお金に余裕ができたら、それからちょっと考えよう。多くの人はこう考えます。まず、家のことを整理して、家庭を整えてからなどと言って。おそらく、そのような人には、神様の働きは回ってこないでしょう。
神様の働きは、今、神様が声をかけてくださる時、これに応え立ち上がる者に与えられます。それがいかに、困難と思える状況でも、そこにこそ、神の御力は現されるのです。こんな小さな者と思う者にこそ、神は働かれるのです。いかに困難と逆境にあって、とてもこんな人が、今の状況では、できないだろうという方々が、いくつもいくつも実にたくさん、しかも喜びをもって、神の働きをされていることは、本当に不思議なことです。背後にあって誰が本当になさっているのかということを思わされます。
そしてそれは神の民として本当に最高に幸せなことなのです。私たちのプランではなく、願わくば、神様のプランのとおり、用いられ、働いていくことができますように。モーセに限らず、神の働きを担ってきた人は常にそうでした。エレミアも、ギデオンも、サムエルも、ダビデも、マリアも神が一方的に選ばれ、全く予期しなかった働きに召されて行きます。イエス様の弟子たちもそうでした。
不思議とやる気満々の時にはその自信過剰を戒められ、砕かれる経験を経て、もう全く生きる指針さえ失ってしまった、もう何もできない、そのような時を経て、ご聖霊が与えられて福音を伝えていく大きな器へと用いられて行きます。
どうか、今、困難にあって、とても伝える力などないと思われている方、どうか、主がともにいてくださって、主ご自身がお語りくださることを、その時その時、語るべきことばを与えてくださることを忘れないでいてください。
(主日礼拝メッセージ「モーセの召命」より)