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心の貧しい者は幸いです


ここには、私たちクリスチャンが、すでに与っている素晴らしい、祝福の恵みの約束と、またそれゆえに生きるべき指針が明確に、具体的に書かれてあります。それは一言で言って、まさに「幸い」なのです。すべては、恵みなのです。

その恵みに生かされているのだ、と今日、知ることができることができたら、幸いです。それが、ここで言われている祝福です。溢れんばかりの、祝福に次ぐ、祝福、ただ、イエス様を信じて従う中で、もうこれでもか、これでもかと追ってくるような祝福の限りです。イエス様の救いとはそういうものです。100%、ただ恵みです。クリスチャンの人生は100%祝福なのです。悲しむ時も、義に飢え渇く時も、迫害されている時も、実は幸いなのです。そして、愛をもって、心きよく、平安のうちに、だれをも愛し、だれとも平和をもたらすものとされているということです。これ以上のことはありません。すばらしいことではありませんか。この現実の厳しいこの世の中で。

あなたは、イエス様を信じても自分が惨めな敗北者のような、かえって信じたがゆえに損ばかりの人生を送っていると思うことがありますか。そうではありません。これも、本当に祝福なのです。負けている方が、実は幸いなのです。義に飢え渇き、満ち足りていない方が。神が義としてくださるからです。そのために悲しいんでいるのなら、神が、イエス様が慰めてくださるからです。義と認めて満ち足らせてくださるのです。私たちは、神に義とされること、神に義しとされること、そして、それゆえ、天の御国に入れられ、そこに生きること、しかも平和に、永遠に、神の御前に、神の子どもとして、神に愛されて。それ以上のことはありません。それが最も幸いなのです。

そして、これらすべては、私たちがクリスチャンとして、神の恵みに生かされ歩む中で、自然と必然的に、しかし、自ら積極的に、神のご栄光のために生きるのだということです。神の栄光は人の世の栄光ではありません。この世の成功では全くありません。天の御国の価値観はこの世と逆転しているのです。

そのことを今日のイエス様の教えは明確に教えてくださっています。十字架がその最たる象徴です。それが真の勝利です。この世では損ばかりと思うこともあるでしょう。報われないと思うこともあるでしょう。こんなにしているのに、神の前にもこんなに義いことをして、もう一生懸命、精一杯、神の義のために生きていると思っているのに、なんでこんな目にあうのか、なんでこんなこと言われるのか、この不条理の世に生きる時、そう思う時もあるでしょう。

しかし、その時こそ、喜んでください。大いに喜んでください。もし、あなたが、神を信じ、イエス様に従い、それゆえに、なぜかしら告発され、迫害のような目に会い、忍耐の限りに耐えているとしたら、あるいは、ありもしないことで悪口に耐えているとしたら、それこそ、クリスチャンとしてふさわしく生きている証拠です。

「喜びなさい。大いに喜びなさい、天においてあなたがたの報いは大きいのですから。」(マタイ5:12)

(主日礼拝メッセージ「心の貧しい者は幸いです」より