今、私たちが、心にひっかかっていること、主を否むような経験、そんな経験を前に、主はもう一度、私たちの前にお姿を現し、問うてくださいます。「あなたはわたしを愛しますか」と。
その愛は神の愛、とてつもなく大きく、高い愛、それはとても自分にはできない。そう思う私たち、事実、そのハードルの高さがゆえに失敗もした。しかし、それでも私たちの精一杯の愛でもって愛したい。もう自分にはわかっています。
もう痛いほどに、散々、いやというほど。自分に非があることを。自分にはできないことを。わかっていてもできないことを。それを言われたら、もう何も抗弁できない。しかし、それでもあなたに従いたいのです。あなたを愛したいのです。でもそんなことも言えない。言う資格さえない私です。
もうこれ以上、ことばでは表せない、その精一杯をペテロは言い表そうとします。それは、神様の愛にはるかにおよばない人間の愛かもしれない。しかし、その精一杯で愛したい。そう、願う私たちの心を、主はご覧になり、決してないがしろにされるようなことはなさいません。
そのあなたの欠けだらけの愛でいい。その精一杯で、愛しなさいと、主はおっしゃってくださっているのではないでしょうか。自分の非はわかっている、でもどうしようもできない、しかし、イエス様、私は、あなたを愛したいのです。あなたのその精一杯の愛を、今、主は喜んで受け入れてくださいます。
この後、イエス様はペテロに「わたしに従いなさい」と二度言われます(19、22)。これは、自分がどのような働きをこれからしていくか、また、どのような死に方で神の栄光を現すかをイエス様に言われて、彼が、では、この人はどうですかと、他の弟子のことを問うたことに対してイエス様がおっしゃったおことばでした。
「あなたは、わたしに従いなさい」(19,22)こう、イエス様は今日も私たちにおっしゃってくださいます。
信仰はイエス様と私たち、どこまでも一対一の、また、いのちをかけての真剣勝負の毎日です。私たちの人生、心も、人格も、私たちの存在のすべてをかけて。他の誰をも一切介在するものではありません。全く関係ありません。
人は人、賜物も経験も違えば、働きも違います。すべては神があなたに特別に与えてくださったもの。あなただけの特別な人生を主はあなたに与え言われます。「あなたは、わたしに従いなさい」このおことばをペテロは、そのまま受け取り、生涯、その働きを、もう見違えるように、力強く全うしていきます。
どうか、今日、「あなたはわたしを愛しますか」そう問うてくださるイエス様に、私たちの精一杯の愛で、「愛します」と応答したいと願います。そして、主がそれぞれに「あなたは、わたしに従いなさい」とご用意してくださる特別な道をどこまでも歩んでいきたいと願います。
私たちの心のすべてをご存知の主が、私たちの弱さも、また、イエス様を愛する心もご存知の主が、いつも私たちに現れ、どこまでも導き、また私たち以上に、私たちには、はるかおよばない大きな愛で、とてつもない大きな神の愛で、私たちを愛し続けてくださいます。
(主日礼拝メッセージ「あなたはわたしを愛しますか」より)